白亜紀の血流 (坂尾菜里)

 夏の夕空を覆う灰色の重い雲は思った通りの雨を運んできた。ぽつりと降り始めたと思ったらそれはすぐに勢いを増し、干上がったコンクリートを黒く染めていく。窓の向こうの風景はすでに雨の線で白く濁り、雨粒を通した光は屈折している。

 彼女は片手で電車のつり革を持ったまま、空いている手でバッグの中を探る。バッグの底で何日も使われていなかった折りたたみ傘に手が触れて、彼女は一つ息を吐く。夏に入って3本目のビニール傘の購入は避けることができた。

 最寄り駅を報せるアナウンスが流れて、彼女はスーツの男性と香水と化粧品と汗のにおいが入り混じった女性を掻き分けて、ホームに降り立つ。

 ホームには昼間の熱気が残ったままで、じっとりとした空気が肌に纏わりつく。時折強い風が吹き雨が線路からやってくる。バッグの中の折りたたみ傘を取り出しながら、改札口へ向かう。駅から自宅までは徒歩15分。その道のりを考えると自然と足取りが重くなった。雨が弱まるのを駅前のカフェで待つのも手だと思ったが、鈍く痛む頭が早く自宅に着くことを望んでいた。

 赤い折りたたみ傘を開く。同じ電車に乗っていたであろうスーツ姿の男性は一つ大きくため息を吐いて、忌々しそうに重く淀んだ空を見上げる。別の男性はビジネスバッグを頭の上に掲げて小走りで駅のコンコースを出る。

 足の甲に当たる生ぬるい雨粒は不快な気分を助長させる。歩き始めてすぐに靴の中は水浸しになった。いつもより早足で彼女はいつもの道を辿る。普段であれば途中でスーパーに寄り、買い物を済ませてから帰宅するが、今日はそれもせずにまっすぐ自宅へ向かう。

 自宅付近を流れる川は豪雨で増水していた。雨の音でよく聞こえないが、周囲の草や土を飲み込みながら海へと勢いよく流れていく。彼女は土色の川を横目に見ながら足を進める。雨の日の川はいつもより存在感を増していて、否応無く目を向けてしまう。

 肌に纏わりつく空気の水分が一段と増す。生ぬるい川に腕を浸しているようだった。質量を増した空気がゆっくりと動いた気がした。

 足を止めて、川を見つめると川面が不自然に膨らんだ。膨らんだかと思うと、その膨らみはゆっくりと陸地へ向かって移動し始めた。それは少しずつ液体から固体と思わしき状態に形を変えて、何処からか流れてきた枝や落ち葉がそれに纏わり付いて流れと直交して動く。ドブ川のような、動物のような、なにかが腐ったような臭いが川から、それから発せられる。

 彼女は陸地へ上がるそれをじっと見つめる。灰色になった町と澱んだ色のそれに彼女の赤い傘は異質で冬の椿を思わせた。それは川面からずるりとその巨体を引きずり上げ、斜面に生えている名前のない草を巻き込みながら進んで行く。川べりの白線を越えて、コンクリートの上を這うように歩いていく。彼女の背丈よりも大きなそれは音も立てずに少しずつ周囲の空気や雨を巻き込み、大きくなりながら、ゆっくりと進んで行く。

 ビニール傘を持った男性がそれに向かって足早に歩いていく。男性はそれの真ん中の辺りにぶつかったかと思うと、ずぶりと音を立てて淀んだそれに飲み込まれていく。ビニール傘の柄がすこしだけそれから飛び出ている。

 彼女はそれの後をゆっくりとついて歩く。傘を持った右腕がそれの発する生ぬるい空気と生ぬるい雨粒のようなものに濡れ、濡れた皮膚は空気中に溶けていく。どろりと変容していく右腕を彼女はじっと見つめる。

 川は轟々と音を立てて海へと向かっていく。

 川べりを歩く時間はたった数分なのにいつまでも景色が変わらないような気がした。

 それの正面から自転車に乗った女性がやって来る。女性は器用に片手で傘を差している。青地に白の水玉の傘。自転車ごとずぶりと飲み込まれ、自転車の前輪だけがこちらへ顔を出す。

 橋の欄干に置いてけぼりにされたハンカチを見る。それと彼女は橋をゆっくりと渡る。橋を渡り切ると、築15年の白い壁のアパート。彼女はその自宅を横目に見て、自宅の隣の猫が何匹も住みついている青い家を横切る。

 彼女は自らの家へと向かわずにそれの後ろを歩く。彼女の足元にはそれが引き摺って来た水草が転がっている。傘を持った右腕は皮膚が溶け、肉が溶け、白い骨だけになり、それが飛ばしたヘドロのようなものが点々と付着している。彼女は形が保たれた左腕で、その右腕をなぞった。ひんやりとしたそれは季節が変わることを報せる夜風によく似ている。

 雨は次第に弱まってきている。白く煙った町は少しずつ色彩を取り戻してきている。自転車の前輪カバーの燻んだ青色、銀色のホイール、ビニール傘の柄は黒、彼女の赤い傘、空気に触れたことのない骨の白、遠くのマンションの外壁は赤茶。

 彼女は骨だけになった右腕をそれに差し出した。指先の肉が溶けて、小指に嵌めているリングが落ちるのが分かった。彼女はそれの中で指を動かす。意外にもその中は空洞のようで自由に動くことができた。肘まで、肩まで、差し込む。足先もいつの間にかにその中にあった。その空洞は少し冷えていて、じっとりとしたこの空気から逃げ込むにはちょうど良かった。

 彼女は、週に一度通っているジムのプールに潜る時のように一度大きく吸い込み、それの中に身体を埋めた。ぬるりとした感触を頬に感じる。生温くて、気持ちが悪い、そう思ったのも束の間、彼女はひんやりとしてつるりとした空気の中に放り込まれた。それの中は思っていた以上に広く、何も見えないくらい真っ暗であることを予想していたが、それも裏切られ、ぼんやりと自らの手の形が見えるくらいの暗さであった。

 貝殻を耳に当てた時のような音が響いている。うっすらと見える彼女の手のひらは透明なアメーバのような、固体のような液体のような、不可思議な形状を保っていた。

ーーこんにちは。

 何処からともなく女の声が聞こえてきた。

ーーどうも。

 何もない空間に返事を放つ。

ーー先ほど自転車に乗っていたものです。

ーーああ、青い傘の。

ーーええ。困ったことになりました。

ーー面白いことになりましたね。

ーーそうではなく、わたしの身体とあなたの身体、一つになってるようで。

 彼女は胸のあたりを見下ろす。だが、そこには何もなかった。洋服も、ネックレスも、貧相な膨らみも、アメーバのようなものも。

ーーわたしの身体はどこでしょうか。

ーー分かりません。分かりませんが、この場所に充ち満ちている感覚だけはあります。

ーー困りました、

 突然男の声が空間に放り込まれた。

ーー私は家へ帰らなければいけないのです。先週生まれた子供が待ってます。

 男の身体は見えない。困ったように子供が、子供が、と呟く男。

ーー子供は大丈夫です。母親がいれば。

ーーこの場合、私は失踪となるのでしょうか。

ーー失踪。

 彼女はぼんやりと拡張された身体を認識する。意識だけがはっきりとしており、水の中で眠っているようであった。

ーーわたしたちはここに存在していますよね。

 彼女はぼんやりと認識されている自らの身体の感覚を立体的に組み立てながらそう呟く。ええ、たしかに。そう返す女の声は空間から響いているようでもあり、自らの身体から発せられているようでもあった。男は家で待つ妻と子供の姿を思い浮かべる。この世に生まれ落とされたばかりの正体のはっきりしない身体。子供は父親と認識しているのか認識出来ていないのかよく分からない目を男によく向けていた。手を差し出すと反射的に指を握る子供はきっと外界との繋がりを掴みたくて、この手を握るのだと男は考えた。俺は今こんなにも何かを掴みたい。そうしないと自分の身体が消えていくような気がする。しかし、男の腕は何かを掴める外形を保っていない。

ーーずっと昔こんな風に生きていた気がするんです。

 青い傘の女はそう呟く。

ーーずっとずっと昔。もしかしたら私じゃなかったころ。

ーーええ、私もそう思っていました。

ーーそんなことより早くここを出たくないか。

ーーここは静かであたたかい。

 男の意識だけがここの外へ出て行こうとする。女はその意思を形の消えた右足に感じる。

ーーいつかきっとその時が来たらわたしたちはまた戻ります。

 女と男は失った両目にかすかな太陽の光を思い出した。

 その光を感じていた頃の記憶はすでに遠去かり、思い出した記憶は新たな予感めいたもののようでもあった。

 それの隣には轟々と音を立てて流れる川があった。



からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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