人の気苦労、つゆ知らず (作 岩渕るみ)

〈ミーン、ミーン、ミーン〉


気怠そうに、蝉が鳴いている。

凝った趣向も無く、ただ決められた音程を繰り返すその鳴き声は、まるで「暑い、暑い」と訴えているようだ。

リツコは、蝉よりも遥かにだらし無く、畳の上に仰向けでへばっていた。去年の夏はこんなに暑くなかったはずと、毎年恒例の愚痴が頭の中を駆ける。まるで、身体が畳に根っこを下ろしてしまったかのようだ。立ち上がって扇風機のスイッチを押しに行く、そのたった3歩分の体力さえも生まれない。

リツコは首を、こてん、と右側に傾けた。視界に垂れた前髪のあいだから、小さな台所で動き回る、恋人のコウジの裸足が目に入った。全く、こんな時期にクーラーが故障するなんて、この男は何か天罰の下るような悪事でも働いたのだろうか?

そんなことを考えていると、裸足のつま先はくるりと向きを変え、ペタペタと音を立ててこちらに近づいて来た。裸足の親指が、リツコの脇腹をツンと小突いた。


「ほら、食べるよ」


コウジはそう言うと、畳におっぴろげられたリツコの腕をまたぎ、ちゃぶ台に向かった。リツコは地面に落ちて溶けたアイスクリームのような姿のまま、半開きの口から相槌を漏らした。コウジがちゃぶ台で立てる、一つ一つの音に耳を傾ける。ゴン、大皿を置いた音。チャカチャカ、箸を並べる音。トクトクトク、お茶を注ぐ音。トクトクトク、お茶....じゃない、何か違う液体を注ぐ音。

リツコは、答え合わせをするため、むくりと起き上がった。ちゃぶ台には、水色の大皿に載った、真っ白なそうめんが輝いていた。そうめんの上に散りばめられた氷が、もう汗をかきはじめている。コウジは片手でガラスのお椀にトクトクトクとめんつゆを注ぎながら、もう片方の手を伸ばして扇風機のスイッチを入れた。

リツコはちゃぶ台まで四つ這いで近づき、コウジの正面に座った。コウジの眉毛が(ナマケモノめ)と言っているのがわかった。無精髭をたくわえたコウジの口が開いた。


「ネギはあったんだけどさ、ショウガ、買うの忘れたんだ」

「うん、いいよ。いただきます」


二人は大皿からそうめんをつつき、それぞれのお椀のめんつゆに浸した。コウジは額に汗を流しながら〈ズズズッ〉と勢い良くそうめんをすすった。そうめんは、まるで巻尺みたいに、しゅるしゅるとコウジの口に吸い込まれていく。この男は、暑い日にすすんで冷たいそうめんを用意してくれる能があるので、たとえクーラーを壊すほどの悪事を働いていたとしても、あまり厳しく咎めることは出来ないのだ。リツコはコウジを眺めながら、そうめんを口元に運んで唇をすぼませた。


〈グブブッ〉


しまった、と思ったときには、もう遅かった。リツコの口の周りで、無数のめんつゆの粒が弾けた。リツコは慌てて白いブラウスの襟元に視線を落とした。ちょうど茶色のしずくが、スローモーションで染み込んでいくところだった。


『世の中にはね、二つの人種があるんだよ。麺類を上手にすすることが出来るのと、出来ずにまき散らしちゃうの。』


リツコの頭の中に、台詞がこだました。以前、ラーメン屋で熱々の豚骨スープのしぶきを顔に浴びたリツコに、隣に座っていたコウジが掛けた一言である。そうだ、私は麺類を上手にすすることが出来ない人種である。それなのに、その性質を毎度忘れては、しぶきを自らにお見舞いしてしまう間抜けである。

リツコはラーメン屋の出来事を回想しながら、正面を向いた。コウジが目を細め、両目の横にシワを作ってにやついていた。ちょっと、笑うんじゃないよ。


「あいにくね、私はこっち側の人種なんですよ、まき散らしちゃう方のさ。この気苦労ってのは、そっち側の方々には、わからないでしょうね」


リツコは、ティッシュでブラウスの襟をごしごしと擦りながら、コウジに突っ掛かった。白い生地はとっくにめんつゆを吸い込み、綺麗な染みを作っていたので、擦ってもティッシュがぽろぽろと崩れるだけの無駄である。しかしリツコには「とりあえず応急処置を施した」という事実があった方が、のちに染みになったとしても後悔が減る気がしたのだ。


「ねえねえ、リツコちゃん、ちょっと」


コウジが、子供をなだめるような声で言った。リツコ“ちゃん”、だって?からかってるのかね、この男は。言っとくけど、一応、あんたにもらったブラウスだから、気に入ってたのにさ...


〈グブブッ〉


どんくさい音がした。リツコはびっくりして手を止め、ブラウスの染みから顔を上げた。正面の卓上に、無数のしずくが散らばっている。コウジの、よれた白いTシャツの襟元に、見事な茶色の水玉模様ができていた。コウジの無精髭には、まるで草木を飾る朝露さながら、めんつゆの粒が光っている。


「...ものまね。そっち側の人種の」


コウジは、にやにやしながら言った。笑いをこらえているせいで、声が震えている。

リツコは、コウジの変な形に曲がった眉を見て、腹の底がむず痒くなった。腹の底のそれはみるみると湧き上がって遂に鼻に到達すると、ンフッ、と変な音になって吹き出した。リツコは悔しいながら、自分の頬にくっきりとほうれい線が浮き出たのを感じた。


「ばかじゃないの」


リツコは持っていた箸をお椀の上に置くと、コウジの汗ばんだ額にデコピンを喰らわした。コウジの口角が上がったせいで、髭に付いていたしずくが飛び跳ねた。

蝉も昼寝に入ったのか、外はさっきよりも静かになっていた。襟元に水玉模様をつけたまま、二つの人種は再び大皿に載ったそうめんの山をつついた。

溶け出した氷は、そうめんをつやつやに冷やしていた。




〈あとがき〉

今回、「そうめん・ものまね・でこぴん」の三つの言葉を文中に使って、「読んだあと体がちょっぴり浮くような気分」になる作品を書く、というお題をいただきました。図らずも、そうめんは私の大好物です。夏の訪れを感じながら、楽しく書くことができました。

(挿絵:岩渕るみ)

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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