タオルケットとまぶた (坂尾菜里)

 視線を感じて目を開くと、真ん丸の目と視線が交わった。網戸に体長10cmほどのカマキリ。彼はこちらを見たまま右手の鎌をゆっくりと上げた。

 畳の上で眠ってしまったらしい。身体の下側にしていた頬が痛い。触れると畳の跡がくっきり付いているのが分かった。今朝から身体のなかがいつもより1℃ほど高く、なにをするにも億劫だった。朝に冷蔵庫の中にあったスイカを食べてそれからうたた寝を繰り返していたらしい。時計の針は2時を指している。

 私は彼と同じように右手の人差し指を鉤型にして彼に向けた。彼は少しだけ高く鎌を掲げた。湿気を含んだ風が吹く。彼の身体がふらふらと風になびいた。



 ――食べる気?

 彼の声は声変わり前の少年のようである。高いような、低いような、ハスキーな声。彼の声を聞くたびに小学生のころ好きだった、健司くんを思い出す。

「食べちゃおうかな」

 彼はじっと私を見たまま、ゆらゆらと鎌を揺らした。

 ――本気?

「イナゴすら食べられないから、私」

 彼は高く掲げた鎌を下ろして、網戸につかまった。ふふ、と少しだけ彼は笑った。

 ――風が吹いてきたね

「雨が降る?」

 ――降らないよ、今日は。もしかしたらこの先も。

「困ったね」

 また風が吹いた。また彼の身体がふらふら揺れて一瞬両腕だけで網戸につかまる。

 隣の家からレポーターの声と笑い声が聞こえてくる。午後のワイドショー。

 ――乾いている。

 彼は時々独特な言い回しをする。そのたびに私は彼のおかれている世界のことを想像する。食べること、眠ること、子孫を残すこと、シンプルなことの連続性で彼は生きている。

 私はいつもより数kg重い身体を起こして、仏壇の前に置いてある飲み口の欠けた湯呑を手に取りシンクへ向かう。蛇口をひねって水をなみなみに注いだ。慎重に窓際まで持っていき、静かに網戸を開けた。

 ――助かるよ。

 彼は網戸のヘリを伝って、部屋の中へ入る。

「いらっしゃい」

 彼は湯呑の水にゆっくりと口をつける。私も朝からテーブルに置きっぱなしだった麦茶を飲んだ。

 また、彼と視線が交わる。彼の瞳は真っ直ぐで何の感情も読み取れない。私はいつもすぐに視線を外してしまう。そのまま見続けたら捕まってしまう。

 私はまた畳の上に横になる。頭の奥が鈍く痛む。汗ばんだ背中と、畳の硬さ。風に乗って笑い声が届く。網戸に掴まった彼の白いお腹をまぶたの裏側で見る。風にふらふらと揺れながら、彼はじっと私を見ている。私は手を伸ばして、彼のお腹に触れる。彼が逃げるまで、触れ続ける。黒く汚れた網戸と知らない色の血液が流れる、身体。

 湯呑のほうへ目を向けると彼は何も残さず消えていた。

 もう彼には会わないようなそんな気がした。

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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