「頭ばっかりでモノを書いてしまうんです?」
よく、 何かを書く上で、 肯定的な意味で呟かれないこの質問。
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こんにちは。
せいけんです。
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その質問と出会う時、
みんな頭で考えて、
モノを書くからいいんじゃないか,と思う。
しかし、
頭でモノを書くことに対する、
ある種の肯定感が持てないのはなぜなのか?
その一つの答えに、 「らしさ」が、 備わっていないからではないか。
そう感じたことを適当に書いてみます。
【らしさとは何か?】
「らしさ」とは、一言で言うと、「その人のからだ」そのものになります。
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あるひとの作品を読む時、 (あるいはある方の踊りを見た時)
この人から溢れ出るモノはなんだろうか、
という不可思議な世界観を感じることがあります。
出会う作品によっては、
その方の持つ世界に、
吸い込まれてしまうようなこと。
その世界に包まれる時、
読者あるいは鑑賞者は、
しばしの悦楽の時間に没入します。
その世界から離れた後も生活の中にその余韻が残ります。
(たとえば素晴らしい踊りと出会った若い頃の私は、深夜に小学校のグランドに忍び込んで一人踊っていました。つまり、その方の遺伝子が私のからだの中に埋め込まれたため踊らざるを得なかったのです)
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踊りだけの話に絞りましょう。
踊りの場合は、必然的に、その人のからだと出会います。
だからダイレクトです。
ただ、その方のからだと出会えば感動する、と言うわけではないです。
その踊りの手の「からだ」が、
あるとき大きな世界観と接続し、
それを「その人のからだ」を通して観客に届けることで、
その場に居合わせたものたちは感動という一体感を味わいます。
そういったものに出会うと、
(ディープインパクトと呼んでます)
人は元の世界には戻れないものです。
ちなみにそういったものがアートだと思います。
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文章について話しましょう。
文が人を感動させるのも同じことだと思います。
ある作家が書き上げた文章が、
ある種の世界と接続し、
それを読者に届けることで一つの感動が生まれます。
(当然のことですが)
ただし文章の場合は、
人のからだが見える踊りと違って、
全てが文字の連なりです。
パソコンやデバイスなどで生まれる文字などは、
規格統一されているため、 全て一緒の表記になります。
(グーテンベルグの活版印刷による大量発行が具現化できた時から、文字の統一化という、文字からの癖の読み取りはできなくなりました。)
ただ、 手書きの場合は、 全てがオリジナルなものとしてそこに残ります。
そこから書いた人の、 「らしさ」つまり「その人のからだ」を感じることができます。
(ここでは手書きと機械文字の違いについては述べません。話が脱線しすぎるのと専門的に探求しているわけではないので収集がつかなくなると思うからです)
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冒頭で記した、
「頭ばっかでモノを書いてしまう?」 という問いについてある種の肯定感が生まれないのは、
頭と体に乖離があるからだと思います。
体から発する気持ちを、
頭の中で素直に受け止めて、
それを素直な形で出せば良いのでしょう。
が、
体から発する素直な気持ちを、
頭の中だけでブロックして吐き出させないようにすることがあります。
それを出したら、
いけないのではないか、
何か大きな問題をうむのではないかと感じているのだと思います。
(無責任に先に伝えておくとそうそう大きな問題はおきません)
頭は、 気持ちを、 平気で押し込めてしまうものだと思います。
頭ばっかで書いてしまうということが、
自分の気持ちを表に出させないようにロックしてしまう、
ということであれば、確かにそれは肯定的な問いとしては発せないですよね。
そういうことでしょうか?
【公文書とエッセイ】
少し、視点を変えてみます。
公文書とエッセイの違いについて。
公文書や組織の定款などを読むと、
わたしはなんか気持ちが沈みます。
(NPO法人の定款を自分なりの言葉に書き換えたことがあります)
あれらは、
人の気持ちを殺して、
みんなで書き上げたものだからでしょう。
それと真逆にあるのがエッセイです。
エッセイは、一人の人間が自分の感じたことを、広い世界に向けて発するわけです。
正しいことよりも、
自分のうちにある「感じ」の実感を、
言葉にするしかないでしょう。
エッセイは、
書き手が自分のからだと向き合わなければ、
生まれません。
公文書 からだのない大きな頭
エッセイ からだの内なる声だけ
私はそんな風に捉えています。
【らしさの文】
文体という言葉があります。
文体とは、書き手のからだから発する、 汗、体臭、リズム、色香、風味、感情、くせ、さらにはその人を生んだ祖先たちの歴史、(←これが一番大事かも) というものがにじんでいることだとわたしは思います。
その人の持つ、切っても切れないものを、受け入れることです。
自分のからだを他者と比較せずに、
愛するところから始めることで、
自分「らしさ」のからだや言葉が生まれると思います。
【書くことは書かないことであり書けなくなることである】
誤解を恐れずに妙なるたとえを書いて終わりにしようと思います。
100人の人を殺した人間が、
その人が絞首台に立つ時、
「幸せな人生だった」と言って死んだとします。
その殺人犯は生きている間、
この世に何かを一文も書いていなかったとしても、
最後のその一言の発言によって作家になります。
(✳殺人を犯すことが作家の条件では当然ないですので悪しからず)
書くことは、書く以上に、その人の行為現象が後ろ盾するものです。
いつも通り、
話を飛躍して、
終わりたいと思います。
青剣
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