水消しゴム (作 せいけん)


「後悔はしない?」 

「忘れてしまえば、後悔することもないだろう。」 

「・・・、そうね。」  


彼女は、僕たちの出会いから今日に至るまでを書いた原稿用紙に、その液体を垂らした。 


「あなたも。」 

「わかっている。」 


僕も同じように、自分の原稿用紙に、その液体をたらした。  

僕たちはそして、原稿用紙の上に書かれた思い出たちを、手のひらでこするように消していった。  

消しながら、僕は心の中で、呟いた。 


さよなら、君の中にいた、僕よ。 


と。 




 ❇ 


水消しゴムをご存知ですか? 


水消しゴムとは、

これからを生きる上で不必要となった記憶を、

そっくりそのまま消すための心とからだに優しい療法である。 


それが生まれたのは、

現代医学の投薬療法の副作用や限界が叫ばれ、

より原始的な呪詛の力にすがりたくなる現代人の心の現れであった。 


やり方は簡単である。 


消したい思い出や記憶を、

原稿用紙に丸ごと書きうつしたのち、

瓶の中にある水消しゴムの液体をそこに流して手のひらでさすって消すだけ。


その行いを通じて、人は不必要と判断した記憶を忘れて、生きてゆく。 


多くの現代人たちは、その呪いじみた水消しゴムを、買い求めた。 


長らく生きていれば忘れたくなる記憶の一つや二つは誰にでもあるのだろう。 


僕もそうして・・・。 


正確には僕たちも、お互いの関係を忘れるために、水消しゴムを買い求めたのである。 


なぜなら、僕たちには、僕たちの未来が見えなかったからである。 


お互いに、

新たなパートナーを見つけて生きてゆこうと、

お互いのことを忘れることにした。 


人生は、

出会いと別れの連続であるといえばロマンティックだろうが、

別れるときはいつだってつらいものだ。 


実は、僕はあの日、

彼女との思い出を消し去りたくなくて、

全く関係のない思い出を原稿用紙に書いて消したのである。 


 ❇  


あれから三年の月日が経った。 


彼女と別れてから、

僕にもそれなりの出会いがあり、

お付き合いをした女性が2、3人はいただろうか。


そのどれもが、

水消しゴムを利用するに至らないほどの、

いってしまえば泡のようなものだった。  


つまり、自然消滅。  


僕は彼女たちと過ごしているときも、

どこか心はうわの空だった。 


心にぽっかりと穴が空いている、そんな感じだ。 


その穴のピースを埋める相手は、

三年前に別れた彼女だということを、

僕はずっと感じていた。 


だから僕は、もう一度、彼女に会うことにした。 


そして僕たちの出会いを再現することにした。 


 ✴  


彼女との出会いは、

とあるデパートのエレベーターで、

僕が免許証入りの財布を落としたのがきっかけだった。 


僕は当時、

仕事の案件をたくさんを抱えており、

頭の中はいつもお祭りのようにしっちゃかめっちゃかで落ち着きがなかった。


だからよく、歩きながら物事をたくさん考えて、自分の持ち物をおき忘れることが度々あった。 


まさかそのおかげで僕たちの恋を引き合わせるとはつゆも思わなかったけどね。 


 ✴ 


 「あ。あのう、すいません」 


 エレベーターを出るとき、僕は後方から女性に呼びかけられたっけ。 


「お財布を落としましたよ。」 


振り返ると、エレベーターガールの洋服と帽子に身を包んだ、彼女がそこにいた。 


彼女の手には、僕の財布が乗せられていた。 


初めて彼女と目を合わせたとき、信じられないけれど、一瞬で恋に落ちたんだ。  


それは僕だけじゃなくてね、彼女もそうだった。 


一瞬で、お互いが全身全霊でつながってしまう、ビッグバン。 


特段、何をしたわけではないんだけどね。 

ただただ、もうそれは、もうそれだった。 


それから僕たちが恋に落ちるまでには月日はいらなかった。 


僕たちは恋人同士として同じ屋根の下で暮らした。三年間。 

彼女は僕と付き合っているときも、とある大きなデパートのエレベーターガールの仕事を続けた。

そして別れた後も、彼女は同じ職場で、同じ仕事を続けた。 


つまり、僕たちが出会った、エレベーターでエレベーターガールをしていた。


 ✴ 


風の噂で、 彼女にも、 新しい恋人が出来たのを知った。 

けど、 それは、 続かなったようだ。 


僕はそれを知ったとき、 ちょっと、 ホッとしたっけ。 

未練がましいけどね。 


つまりは、 僕の心の中に、 いまだに彼女が生きているってことだよね?  


僕はあのとき、 水消しゴムで、 彼女との記憶を消さなくてよかったと思っている。  


やっぱり、 思い出は、 捨てられないものだよ。 


でね。 僕は、 その思い出に、 もうちど梯子をかけることにしたんだ。 


上手くいくかはわからないんだけどね。 


 ✳ 


今、僕は、彼女のいるエレベーター内にいる。 

水色の制服を着た彼女の後ろ姿をそっと見つめている。  


ちなみに、 エレベーターに乗ったとき、 僕はその他の乗客と紛れていた。  


僕はデパートに用があるたくさんのお客さんの一人だ。 

もちろん僕が一人で乗ったとしても、

記憶のない彼女が、

僕に特別目を向けることもないだろう。 


エレベーターが最上階のレストランに上がった。 


乗客は皆一斉に、その箱から溢れるように、出て行った。 


残された僕は、 エレベーターから出る際、 何気なく財布を落として歩んだ。 



その直後。



 ✳ 



「すいません。」  


あのときの記憶がフラッシュバックする。 

確か、財布落とされましたよ、と彼女は続いて言ったけ。 

けれども僕は、それよりも早く、振り返ってしまった。 


台本は、あの頃と、違っていた。 


彼女は、落ちた財布に、人差し指を向けていた。 


決して、あの頃のように、拾ってくれはしなかった。 


そして僕たちは久しぶりに目を合わせた。 


そのとき、僕は、悟ってしまった。 


「財布、落とされましたよ。」 


 「ありがとう。」  


僕はお礼を言って財布を拾った。 


しばらくその場で立ち尽くした。 


 「レストランはあちらですよ。」 

 「いや。レストランに、用はないから。」  


ちょっとした沈黙だが、

離れていた三年分の重みが、

そこにはあるような気がした。 


 「じゃ、戻りますか?」 


彼女の声音から、

エレベーターガールの仕事用の音が、

少し消えた。 


 「いいんですか?」 


 「もう、下に行くだけですけど。上がりきったので。」 


財布を拾うと、僕は彼女がいるエレベーターへと戻った。  


昔見た、エレベーターガールの制服と帽子の水色が、少しくすんで見えるような気がした。 



                                       (了) 

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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