きがるね 〜ボクは現代アーティストの卵が割れたあとの殻のようなものです〜 



皆さま こんにちは。 

変な人の青剣です。 


ふと、思いたって、このコピーで書こうと思いました。 


主に、 自分というものを、 

どこに、どのように、置くかというポジショニングの話をしたかったのですが、

大幅に脱線して、きがるねの活動についてそれとなくまとめる内容にもなりました。



 ✳ 


私は、 

自分のやっていることが多様化しているため、 

一つの言葉で限定することが難しくあるときから【変な人】と名乗るようになりました。 


まだまだこのコピーで生きていくつもりですが、 

自分が何者であるかをより厳密にいうと、 

現代アーティストだと思います。 


現代アーティストは、 

自分を現代アーティストですよ、 

と名乗るとこから始める時代に差し掛かってきたと思います。  


美大・芸大卒だとか、 

美術手帖に取材されようだとか、 

なんちゃらトリエンナーレに出典を目指そうだとか、 

それなりの賞をもらおうなどと思ってはダメ。  


お墨付きをもらおうなどを考えている時点で、 

その人はアーティストとしてはてんでダメです。 


周りのレッテルはおまけにすぎません。  


シールを貼りたい連中にはらしてやるかどうかを、 

現代アーティストと名乗るのであれば、 

こちらから選択してあげないとダメです。  


賞が欲しくて絵をかいている人は、 

賞が欲しい絵しかかけないし、 

ある出来上がったコミュニティ(所詮は、賞を渡す組織もコミュニティです)から、

賞賛されたいだけのモノしか作れないです。 


アーティストたちが、 

与えられた文脈に対する適切な答えを提示しては、 

本当の意味で世の中終わりになります。  


(それは学力テストと同じです)


そういう人たちは、

アーティストではなく、

頑張って偏差値教育の最高峰である東大を受験して卒業して、

由緒正しき官僚になって生きたまま屍になりなさい。


(誤解を避けるために言うと、ボクは東大生をすごいと思います。ボクが勉強できないからです。)



それよりも、 アーティストたち(ことに現代アーティストたち)は、 

これが今の時代を生きるコンテクストですよと提示できるだけの、 

スーパービジョンを軽やかに打ち出す必要があります。 


どんな手段でも。 


美術館で、 作品を陳列するのは、 

その人(アーティスト)の歩んだ軌跡の集大成として、 

最後の最後にとって置くぐらいの気位でやらないと、 

アーティストたちは必ずどこかで潰れてしまいます。 


アーティストたちが戦うのは、もっともっと、目に見えない大きなものです。  


それに立ち向かうだけの、からだを、絶対的に有して行かないとくじけます。 


 ✳ 


 少し熱くなりすぎましたね。 


 ふ〜。  


では、 現代アーティストと安直に名乗って、 

いいのかといえばそういう訳でもないとは当然思います。 


自分が何を持ってして、

現代アーティストとして名乗り、 

世間や社会やあるいはみじかなところに、 

良い意味でのインパクトやひずみを作ってゆくかを考えることが大切になります。 


そういった意味で言えば、 

全人類総発信時代に差し掛かった今、 

自分をどのように見せてゆくかが、

自分の暮らしている世界を開く【鍵】になります。  


ここはとてつもなく重要です。 





 【私が世の中にはなったきがるねというART】 


(写真は作家の小野美由紀さんと最初に行ったクリエイティブライティング講座にきがるね導入したシーンです)


からだ部を始める前、 

私が世の中に復帰して、 

最初に手がけたのが「きがるね」というART活動です。 


 「きがるね」には大きく二つの意味があります。 


 一つ目は、街中で寝る「気軽寝」という活動。 

少しずつ、 こちらの活動が、 遊び心を持つ人たちのコミュニケーションの手段として始めてくださいました。 


 二つ目は、一本の木をイメージして、みんなで委ねあいながら寝るもの。 

こちらは定期的に開催しつつ、ライティングのプログラムやコミュニティ活動や、学校などに少しずつ導入する流れになっています。 


きがるねの持つ二つの意味と活動は、

全く違うものですが、

両者はきってもきれない関係にあります。 


 (それについては後半で書きます) 




 【ものの見方について】




一本の樹をイメージして、 

お互いを委ね合うように寝る、 

きがるねについて話します。  


このきがるねはとても素晴らしいものなのですが、 

殊に日本の社会においては素直に受け入れがたい、 

文脈を持ち合わせています。  


理由は単純で、 

そこには全てが溶け合った瞬間にしか生まれない、 

本質的な美しさがあるからです。 


日本では、 本質的な美しさを、 ありのまま見せない文化構造の中で醸造してきました。 

 

つまり、 物事をみたてたり、 暗喩させたり、感じさせること。


表現そのものをオブラートに包んだり、水で薄めたりすること。 


そのような、介在、がある中で受容されてきました。 


それゆえ、 本物を本物のままに見せることには、 

作り手側にも見る側にもある種の躊躇い以上の禁忌のようなものが、 

人間の深い意識に連綿と根付いているのです。 


(現代アーティストの会田誠さんが、自分の作品を襖の隙間から覗くように鑑賞してください、と言うのもそのためではないかと私は思います)  


ですから、 

たくさんの人たちが溶け合っている状態の「きがるね」は、 

これまでになかった文化として世の中にむき出しのまま生まれました。 


私はそれを、 

行為芸術として、 

写真という記録芸術として、 

公に出すような活動を行いました。 


またこれは、 

個人の「青剣」というアーティストでなければ、 

作れないものだったといえます。 


きがるねを、 

アーティストが手がけたものとして、 

ポジショニングを明確にすることにしました。  


理由は単純で、 

日本の社会では、 

集団でこのようなものを作るということはあまりよくありません。  


なぜなら日本のマスメディアはハイエナ主義であり、 

あまりに美しいものや理解できないものと直面すると、 

怪しげなものとして祭り上げるのがとても大好きで得意な連中です。 


(その点、心を持ったメディアはウェブメディアが主軸になると思います) 


だから、 

きがるねを作った人が、 

青剣という一人の現代アーティストか、 

と言うある種の防衛線を張ってゆくことが大事になります。 


どんな言葉をもらおうと、 

全てが私へと結集するのであれば、 

私のからだはむしろそれをエキスに立っていられると思うのです。 





 【きがるねは別に新しいものではありません】 


 


少し、 お断りしなければ、 ならないことがあります。


私が世に放った、きがるねは、新しく生まれたものではありません。 


実は、 私のいるコンテンポラリーダンス(定義が色々ありますが)の世界においては、 

たくさんの人たちが積み重なるように溶け合う状況はよく垣間見られます。  


私はそれに、 

ちゃんとした光を当て、 

つまり「きがるね」と言う言葉を与えることで、 

カジュアルなイメージデザインを施したのです。 


さらには、 

人々のうちに眠ったクリエイティビティーを引き出すものとして、 

その地位を確立させただけです。 


要するに、 

今までのダンサーたちは、 

舞台の上で自らに光を当てることに盲目になるあまり、 

自分たちの作った身近にある宝に気づき光を当てることがなかったに過ぎません。 


(否定的な意味ではなく事実をお伝えしています。私自身もそうだったからわかります)


ただし。 


最近では、 

わたしがきがるねを表に出すことで、 

それに続いてそのような写真を出すダンサーさんたちも出てきました。 


私自身それは大きな一歩だと思います。  


なぜなら、 

枠の中で枠のままに収めるのではなく、 

枠からはみ出してちゃんとした「ひずみ」を作ることが、 

いつの時代にもアーティストたちが担わなければならないことだからです。 


そしてそれに価値ある光を生み出すのもアーティストだからできるのです。


 (断りを入れておくと、ひずみは、悪いものじゃないからね)  


額縁をぶち壊すような表現でなければダメなのです。  


そして、 

それに耐えうる、 

アーティストとしての「からだ」をちゃんともてるかが、 

生きている間の踏ん張りどこというか勝負どこになるのではないでしょうか。  


※お断りしておくと、私が言葉を与えた「きがるね」を、広めてくださいね。

と言う気持ちで書いてはおりません。

なぜなら、「きがるね」は私にとってはすでに、古典芸能のごとくそれなりに型を持ちました。

広まろうと広まなかろうと、ちゃんと生きてゆくだけの、カタチを持ち合わせています。 

ですから、私は新たなところに光を与えて、ほかの方々が参入にできるような「ひずみ」を作ることに自然と向かっています。

それを繰り返してゆくのだと思います。 




 【きがるねと言う名のコミュニケーション(or コミュニティ)デザイン】 




実は、きがるねには、デザインの要素が加わっています。 


もう一つの、街で寝る、気軽寝がそれです。 


街中で、

つまり普段寝ない場所で、

寝ると言う行為が、 

人々の心をちょびっとくすぐり、ちょっとした遊びを生みます。  


実際、

街中で気軽寝する、写真を送りつけてくる不届者(愛を込めて呼んでいます)や、

本家の私のコメントがもらいたくてご自身のSNSのタイムラインにアップロードする分家たちがいます。


非常に愛しい方々です。 


なぜ、

私が彼らを愛しいと感じるかは、

私が始めた町での気軽寝を真似てくれたからではありません。


彼らが、

本質的な遊びに気づき、

世の中バカ真面目にやらないで、軽やかに生きてゆこうよとする気持ちが愛しいのです。 


つまり、 

街中で寝る、

「気軽寝」 と言う単純な遊びの中に、 

見知らぬ人同士を接続すコミュニケーションデザインが、 それとなく施されています。 





 【ARTとデザインの両輪を組み合わせること】 


きがるねとは、 

皆が一本の樹をイメージして一つに溶け合うARTと、 

街中で寝る遊びを通じて繋がるコミュニティとしてのデザインによって、 カタチ作られています。  


両者はとてつもなくかけ離れたところにいますが、 

それをくっつけることにより「きがるね」のバランスが保たれ、 

両足で交互に車輪を漕ぐような形で文化として息づいてゆきます。 


このかけ離れたものを、 

うまく縫い合わせるような、 

【接続詩】を作れるかが、現代アーティストたちに求められているものです。 


(接続詩について書かれた記事です)







 【未知なる道へ】 




そろそろ話をまとめようと思います。 

すでに、収拾つかない感じですが。。。 


サブタイトルに、 

私は現代アーティストの卵の割れた殻である、 

と述べました。 


実はそれについて書くつもりが、

書いているうちに脱線して、

何を書くべき完全に記憶が喪失しました。(涙)


だからなぜ「アーティストは卵の割れた殻のようなもの」なのかは、実は私もよくわからず書いたのです。 


ちなみに、 私は芸術系の大学を卒業したのですが、 絵は描けません。 


(描くと、幼稚園のまま大人になったような、実に味わい深いド下手な絵になります) 


それでも、 

それだからこそ、 (接続詞としてもおかしい使い方ですが)

私は自分を現代アーティストと名乗るべきだと思うようになりました。 


なぜなら、 

ダンスでもない、 

絵画でもない、 

音楽でもない、 

行為芸術としての「きがるね」を世の中に可視化したからです。  


そして、 

きがるねと言うものを世に可視化した、 

私自身がまだまだ何者なのかわからないからです。 


未知なる道を探求する所存です。 


 書くの疲れたので、 おわりにしておきます。 


 全く、まとらんかった、です。。。 



                       現代アーティストの卵の割れた殻  青剣

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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