その人のからだはその人だけの国 


こんにちは。 


変な人の青剣です。 


からだのコトについて思うままに書いてみました。 







 【社会化された身体】 


わたしたちは日頃社会に身を置いてます。 

スーツを着ること、ネクタイを締めること、名刺をきること。 

社会化された中で暮らすと身体は鎧を纏うように確実に硬くなります。 


では、 芸術的な(たとえばダンスなどの)表現をしていれば、 身体は解放されるのかと言えば絶対ではありません。 

ダンス(あえてダンスします)のテクニックを学ぶ中にも、おもいっきり社会化された規則や、ある種の絶対的な法があります。 

むしろ、踊りを学ぶことは、社会が内包する病いをうちに深めてゆくことでもあります。 


 (ことに私のいたモダンダンスはそうです。そのような歴史を持っているからです) 





【社会化された身体から解放されたからだへ】 


わたしは社会化された身体を、出来る限り柔らかい「からだ」へと、戻してあげたいと日々思います。

つまりその「からだ」は頭と気持ちが繋がった心地よい状態です。 

からだ部の「からだ」が平仮名であるのは身にまとった鎧を外してニュートラルな状態を大切にしようと思うからです。 


表現するスタート地点はこの「からだ」を手にするコトです。 





【からだ=国】 


ある知人「どこの国ともわからない作品」を書いた際、 その方が所属する創作教室では、その時代考証を求められた話を聞きました。 

本格的な歴史小説を書くなら話は別ですが、時代考証に応えることは、 自分のうちにある身体性から遠ざかり、社会化された枠組みによって形骸化されてゆくことだと思います。 

なぜならそれはすでにある歴史的な何かになるからです。 


 (ま、そういうものを作りたいなら、それでいいと思います。) 


それを求めていないのにも関わらず、既成の枠に沿わせることはとても残念なことだと思います。  

なぜなら、自分のうちなる世界にあるものこそが、本当の意味での作品世界だからです。 

短歌や俳句に名前がないのは、 それらの言葉の連なりが一つのからだを形成しており、社会化しようとする固有名詞すらをも拒んでいます。 

前衛短歌の塚本邦雄さんは、日本の文学作品の原型を突き詰めると、短詩系文学の短歌や俳句の型にたどり着くことを述べています。 

短詩系文学の短歌や俳句はそのまま日本人の「からだ」であると感じます。 

各々の「からだ」には各々の「詩性」があります。 





 【その人のからだにはその人だけの国】 


その人のからだにはその人だけの国があります。 

ちゃんとその国で暮らしましょう。

どうせいつかは離れる日がくるんだから。 


 おわり。                          



 変な人 青剣    

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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