ありがとうの先払い 【デパーゼvol.10】


「おいしい。」
 

文絵は、煮込んだ牛スネ肉を褒めた。
 


その一言が食卓を和やかな雰囲気に包む。
 


僕らはとりとめもない会話をしながらごはんを食べる。
 

ただ、僕は少しだけ、温野菜をつまむ程度である。 


「さっき、夢を見たんだ。」
 


文絵が食べ終わった頃に、僕は言う。 

「どんな?」
 

文絵はお茶碗を流しに持って行くと、冷蔵庫から梅酒を取り出してグラスに注いだ。 

「打ち上げられたクジラが、ゆっくり死んでゆく、そんな夢。」
 

文絵はグラスを手に席に戻ると、まぶたを閉じた。
 

どうやら、夢の情景を思い浮かべているようである。 


「グランドの落書き。多分あれが、夢に出て来たのかな。」

「じゃ、小学生たちがあなたの夢を描いたわけね?」 

「そんな風に考えはしなかったな。」 

「でも、何で、打ち上げられて、死ぬ瞬間なんだろう。」 

「さぁ。」
 


僕たちはよく夢ついて話した。
 

そこから何らかの意味を読み取るように。 


「とても美しかったんだよね。神秘的っていうのかな。」
 


文絵は梅酒を一口飲むと、まぶたをうっすらと開く。 

「どんな色?そのクジラ。」 

「いや。色はない。」
 

文絵は指でグラスの氷を回しながら、 

「じゃ、その色を考えようよ。」
 

と、言う。
 


たぶん、

グラスの中の氷のように透き通るものだと思う。 


「うす紫は?」 

「そんな色のクジラいる?」

「夢だからいいじゃない。」

「まぁね。でも、透き通るような色じゃない?」 

「じゃあ、クリスタルみたいなものかな。でも、それは色じゃないか。」

「そのグラスの氷みたいな感じかな。」
 


文絵はグラスの氷を見つめながら、 

「いいじゃん、それ。」
 

と、納得する。 


「で?」 

「でって。」 

「だから続き。」

「いや、それだけだよ。」 

「なんだ。つまらない。」 

「夢なんて、そんなもんだろ。」 

「そうね。」 

「ただ、続きじゃないんだけど。そのクジラを何人かと見守っている感じがしたな。」 

「誰かと見守っている方がイメージが伝わってくるわね。」 

「きっと、子供たちだと思うな。クジラをグランドに描いた子供たち。」 

「どの子たちが描いたのかしら?」 

「犯人探しする?」 

「しないわよ。別に、怒ることでもないんだし。」 

「そうだね。」 

「ねぇ、そういえば、あなたって落書きしたことある?」
 


文絵は何かを思い出したかのようである。 


「それは子供の頃の話ってこと?」 

「そういうわけじゃないわ。今までの人生でって、こと。」
 

僕は考えたフリをして、

「ない。」と、

嘘をついた。

実は一度だけある。 


「ふ〜ん。」 

「どうしたの急に?」 

「ううん。ただ、よくトイレの壁って落書きされているじゃん。あれ、どう思うかなって。」
 


トイレの落書きを思い浮かべながら、 

「印象に残ってるトイレの落書きって何?」
 

と聞いた。 


「『よく来たな。まあ座れ。』っていうヤツ、かな。」 

「女のトイレにもあるんだ?」 

「中学のときの女子トイレにあったわ。しゃがんだ時、ちょうど目の高さに書いてあった。」 

「それって、誰が書いたのかな?」 

「さぁ~。先輩じゃない?」 

「もう卒業した先輩?」 

「たぶん。」 

「でもさ、もし卒業した先輩が書いたものだとしたら、すごくない?先輩は卒業したのに、言葉は残り続けてる。ってことは時間を越えた会話だよね?」 

「本当そう思う。」 

「そして、来た人来た人に対して、分け隔てなく言葉をかけ続ける。『よく来たな。まあ座れ。』って。そんでもって、ゆっくり話を聞こうじゃないって、感じがするね。」 

「そうかもしれない。そのトイレに入ると、なんか、ホッとした。裸のつきあいっていうか、お互い尻丸出しなわけだし。」
 


品が無いと感じながらも、 

「まだ 残ってるのかな?落書き。」
 

と、言う。 


「さぁ。残ってるんじゃない?」
 


僕はその落書きの前でうんこ座りする自分の姿を思い浮かべた。 


「それと最近、『いつもトイレを綺麗にお使いいただき、ありがとうございます。』っていうヤツ、見かけない。」 

「よく見かけるね。」 

「私、あれ嫌い。」 

「どうして?」

 「なんか、『ありがとうの先払い』みたいで、いやらしい。」 

「何それ?」 

「最初に見かけたときは、『あっ、お礼を言われちゃったから、ちゃんとしなきゃ』っていう気持ちにもなったんだけど。でもすぐに、『ありがとう』っていう言葉の裏に、『綺麗に使えよ』っていう、猛烈な期待と脅しが隠されているような気がして。だんだん、ムカついてきた。」

 「ははは。なるほどね。」 

「そんな回りくどい頼み方をするぐらいだったら、最初から『トイレを綺麗に使ってください。掃除する方は大変です。よろしく。』って書いてくれた方が、よっぽど正直で気持ちが良いわ。」 

「文絵らしいね。」 

「『綺麗に使えないならトイレを閉鎖するぞ!』も、アリかな?」 

「ナイでしょ〜!」 

「まぁ。なんでもいいけど、あの『ありがとう』だけはヤダ。」 

「はいはい。でも、トイレって落書きとか関係無いけど、いろんな言葉があるよね。」

 「そうかもね。『もう一歩前で用を足してください』とか。『必ず消灯してください』とか。『今月の宴会メニュー』とか。」 

「居酒屋なんかだと『親父の小言』みたいなのもあるね。」 

「あるある。」
 

その後、話題が最近の居酒屋になる。
 


僕たちの話題はそんな風にコロコロと変わった。  



作 青剣

絵 ヤマネコトリコ


からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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