変集から偏集へ


みなさま 

お世話になります。 


 (お手紙形式にてご挨拶) 


 本日は、 私なりの編集観について、 お話したいと思います。


  

(たいそうなものではありませんが、ここらでお伝えしておこうと思いまして)  


が、 

いっぺんに全ては話せないので、 

思いつくままに大切な軸のみお伝えしてみます。 


まず、 私は、

自分のとりくむ「へんしゅう」を、 

編集という文字は当てずに、変に集めると書いて、【変集】とよんでいます。 


そこから先に進むと最終的には【偏集】という形に収まります。 




【そもそもなぜ編集ではなく、変集なのか?】 


まず、 私が、 変な人だからである。  


変な人とは、 

一般的な変わった人という意味だけでなく、 

常に変わり続けてゆくという姿勢が元になっています。 


また、変集とは読んで字のごとく、変な集め方になります。 


私は一般的な編集社に勤めたことはありません。 


この先も務めることはないし、

自分のゆくべき場所ではないと感じています。 


なぜなら、 

私は本のページのあいだから生まれたわけではなく、 

踊りと向き合うなかで自分のからだから生まれたからです。 


そのため、私が集め、 

あるいは勝手に集まってくる人たちには、 

いわゆるライター/編集者などの出版畑の人はいませんし、 

どちらかといえばからだを持った表現者がほとんどです。 


からだ部において私は、 

編集長ではなく、 変集長とかくのはそのためです。 



【変集スタイルはどんなものであるか?】 


では、編集と【変集】にはどんな違いがあるのか? 


端的にいうと、 

私はその人のからだから放つ、 

「もの」を大切にしています。 


必ず、 身体的なもの、 が重要視されます。 


ある著名な方を知る時、 

その人の歩んできた蓄積(書籍、動画、ほか色々)を、 

満遍なく情報収集して知ろうとすることがあります。 


とても良いことだと思います。  


ただ、それは、

ある種の考古学的なやり方であって、 

この世にいない人に対してはマストな方法になります。 


生きている人なら、 会えばいい。 


そして、踊れば良い。 


(私にとっての踊りはかなり多義的な意味になります。詳しくは長くなるから書きません) 


あとは、イタコを呼ぶとかですかね。。。(笑) 


この冗談にいった、イタコはヒントというか、一つの解答です。  


松岡正剛さんが、 

編集には人の仕草や癖が関連することを、 

知の編集術で述べています。  


つまり、 編集する上では、 

他者の歴史的情報よりも、 

その人を今尚カタチ作る世界をキャッチすること。 


私の行う変集術は、 遠隔で他者を感じようとすること。 


ただ、 それだけです。 


それ以上の難しいテクニックはなく、 

考えすぎると神様がさるので、 

考えません。 


あとは、 

ぽかんとふってくるものを、 

大切にします。 


そして、 そっくり、 そのまま伝えます。 



【からだのつながりとひろがり】 


上記は、 からだ部のミッションである。  


が、 

ミッションである前に、 

私たちの部活動を支える土台です。 


これを別の言葉に意訳すると、 

いにしえより続く、 

「神々の祭り」

と捉えています。 


飛んだね。 


と、思われるけど、

ダンス的思考回路を持つ私からすると、 

そうなんです。 



 【親和性=神話性】 


このタイトルでいつか書こうと思っていましたが、 

月日がだいぶ過ぎてなお、具体的に書かなくていいや、 

という気持ちになりました。 


全てを思考でまとめるのは神様をおいはらうからです。 


代わりに、 

私がからだ部で、 

部員としてお誘いする、 

うえで、 

大事にしていることを書けば、伝わるかしら。 


からだ部では親和性をとても大切にしています。 


親和性は、 

自然と、 

ものを生み出す仕掛けになります。 




【つながりの相互共振】 


私が大切にする、 

変集方法は、 

二つが一つになることです。 


他者があって自分の実感が生まれ。 


自分の存在が他者を生み出すこと。 


予測もつかないムーブメントは、 

二人があらたな生き物として、 

つかの間ひとつになろうとします。  


からだ部のワークでは、 

たまに、あたまのなかが空っぽになる、 

恍惚とした瞬間が訪れることがあります。 


もう一度言います。 


それは、 かなり、 恍惚とするものです。  


なぜ、 そのような瞬間が訪れるかというと、 

(これは宗教的な説明のつかないことではなく、) 

単純に自分の体を丸ごと誰かに支えてもらったときに、 

自分がすっと消えるのです。  


自分でもよく思うのだけど、 

誰かと感覚で繋がるって、 

言葉を軽やかに超えて満たされます。 




 【変集から偏集へ】 


おわりに。 


偏った集めかたと、

書いた、

【偏集】についてお話します。  


ちなみに、 

私の一連の文章を読んで、 

随分とふわふわしているなとか、 

思考が飛ぶなとか、

余白があるなと思っていただけたら、 幸いです。 


私は、 自分がかくものには、 いつでも隙間を与えたいと思っています。  


実際は、書いているうちに、休んでいるだけかも。。。


(あまり、そうは感じない方は、ごめんね) 


タイトルだけ書いて、 

何も書かないか、 読者に文脈を元に考えてもらうとか、 

あるいは、最後の一文だけ載せるとかしようかと、いつか思います。 


そうすることの方が、 

読者は自分でその部分を補うし、 

相互共振が生まれるし、踊りになるからです。 


そうそう。 


おわりに向けての話でしたね。 


偏集とは何か?  


私は一般的なメディアが持つ、 

バランス感や作り方みたいなのは、 

ある程度はわかるけど、どうでもいいです。 


とことん、 その時の流れで、 偏った方向性に行くということです。  


たとえば、 

今のからだ部のメディアを客観的にみると、 

部長と名乗る変集者がコンテンツの9割を作成しています。 


一般的な観点からすると、 

それってどうなの? と、

多くの人は思うでしょう。


お前それじゃ、個人のブログじゃないか、って? 


そうみる人の視点を素直に受け入れますね。  


ただ、作り手である私は、 

自分の意思で書いている個人ブログという意識はなく、 

つながりの中で導かれているように道を作っているだけです。 


ある種の、責任感でしょうかね。  


(スタートは設置者が土台を作るし、特に、からだ部のメディアは部長が前に出るのが始まりです)


からだ部を始めなければ、 

私はここでモノを書こうと思わなかった、 

と思います。 


作家やクリエイターやアーティストを活かして、 

あなたは黒子になりなさいという、 

「顔なし編集者」の不文律に収まるつもりはないです。 


私は、他者を生かして、自分も活きます。 


自分が感じるままに生きることが、 

他者に余白を与えて、 

からだ部に参画する人たちの己がスタイルに気づくきっかけになると思います。 


私のスタイルを真似るクローンはいらないです。 


 (ま、そんな人には声をかけてないけど) 


だから遠慮せずどんどん前に出るように作ります。  


すでに、 作家活動をしている、 渋澤怜を【渋澤怜部】と招いたのもそのためだと思います。  


つまり、 

フェアな精神のもと、 

部員たちとイチャイチャしたいと思います。 


 長くなった。 


 おわりにします。 


                         からだ部 部長 青剣 

からだ部

からだ部とは、「からだを感じる」をコンセプトに、部員たちがモノをつくり発信する部活道である。 主な活動は、 1)メディア 2)ワークショップ 3)企画 の三つになります。

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