バターの香りは朝の慌ただしささえまろやかにする。
イチは、ほぼ毎朝バタートーストを焼いた。
ただ、ぼんやりとトーストをかじる時間が好きだった。
しかしその日、
「おはよう」と突然、
晋作がキッチンに入ってきた。
イチは調子が狂った。
いつもなら晋作はまだ寝ているからだ。
晋作は冷蔵庫を開けると、パックの牛乳を取り出してじかに口をつける。
「何かある?」
牛乳を飲み干した晋作は冷蔵庫を物色する。
イチは食パン二枚をトースターにセットした。
「トーストでいい?」
「ありがとう。」
「バターは?」
「塗る。」
二人が一緒に朝食をとることはほぼかった。
イチは、晋作が目を覚ます前に出かける。
久しぶりに明るい中で見る晋作の顔はずいぶんと陽に焼けていた。
「そういえばさ、明日の誕生日、やっぱり帰るの?」
晋作と付き合って三年になるが、
彼の誕生日を二人で祝うことがあっても、
イチの誕生日を二人で祝うことは一度もなかった。
なぜならイチはその日、実家に帰ることにしていた。
そしてとある一本の樹の前で過ごす。
もう、何年もそうしてきた。
ちなみにイチの誕生日は弟の命日でもあった。
イチは、ケーキに蝋燭を灯すよりも、そっと過ごしたいのである。
「う、うん。明日は帰る。」
「わかった。」
晋作は微笑んだ。
それはいつもと変わらぬ、健やかで爽やかな、笑顔であった。
イチは、その笑顔を前にして「ごめん。」と呟くことはなかった。
晋作の笑顔はお互いの関係を取り繕うものでしかない。
イチは、晋作が複数の女性と関わりを持っている事に、気づいていた。
「焼けたね。」
イチは、陽に焼けた晋作の顔を見てそういった。
しかし晋作は、トースターに目を向けた。
「違う。顔。」
「ああ。この季節はね。この仕事を続けて行くなら仕方ないよ。」
晋作は引っ越し業者として働いている。
付き合い始めの頃はアルバイトであったが、それから半年後に正社員になった。
「トーストいいかな?」
「そうね。」
イチはトースターからトーストを取るとバターを塗った。
バターの香りが広がる中でふと晋作の二の腕を見つめた。
それが今日もまた見知らぬ家の家具を運ぶところを想像した。
作 せいけん
絵 鈴吉
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